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「鳴くまで待とうホトトギス」から考察する徳川家康「我慢の美学」

265年もの間、長きにわたり天下を収めた徳川幕府。
その礎を築いた人物こそ徳川家康だ。
群雄割拠の戦国時代を生き抜き、大坂の陣・関ヶ原の戦いで天下統一を成し遂げた。

しかし、それまでの道のりは決して平らではない。
織田信長、豊臣秀吉という権力者に仕えながら、機が熟すまで我慢に我慢を重ねて手にした功績である。

家康の性格を一言で表すなら、用心深く粘り強い慎重な人物と言えるだろう。
「滅びる原因は自らの内にある」と家来や自分に言い聞かせ、常に用心を怠らなかった家康。

その根本にあるものは“我慢”だった。
そこで今回は、人生に役立つ「我慢の美学」を家康が残した言葉や史実から学んでみたいと思う。

鳴くまで待とうホトトギスの人生

愛知県の岡崎市で松平家の長男に生まれた家康。
6歳のとき織田家に人質として囚われ、その後、今川家の人質として静岡の駿府城で暮らすことになる。

桶狭間の戦いで信長が今川義元を討ち取ると、家康は今川家の人質から解放され19歳にして故郷である岡崎城へと帰還する。

ようやく自由になれたと思いきや、その頃、愛知では信長が勢いを増して領地拡大に力を入れており、またしても緊迫した状況に追い込まれてしまう。

信長を避けるように2年ほど敵対するが、このままでは状況が悪化すると判断し、争いを回避するために織田家と清須同盟を結び仲間入りを余儀なくされる。

そして、本能寺で信長が死去したあとは小牧・長久手で豊臣秀吉と戦うが、秀吉から和解の申し出があると承諾し、豊臣家のナンバー2として五大老の重役に就任。

さらに、秀吉が病死すると、大阪夏の陣で豊臣家の後継者である秀頼を死に追いやり豊臣家を滅亡させ実質的に天下統一を果たした。

関ヶ原の合戦では石田三成との戦いに勝利し、1603年に征夷大将軍となり政治の主導権を握ると、江戸に幕府を開き265年にわたって続く徳川家18代将軍の基礎を築く。

こうして見ると、いかに我慢を強いられてきたかが分かる。
幼少から青年までの人質生活、信長や秀吉の顔色を見ながらの立ち回り、人生の大半が我慢の連続だったに違いない。

機が熟すのを待ち、ようやく訪れた大坂の陣というチャンス。
だが、ここでも真田幸村に命を奪われそうになるが、持ち前の粘り強さと悪運で回避する。

家康の代名詞ともいえる「鳴くまで待とうホトトギス」という言葉があるが、まさに我慢の人生を集約した言葉と言えるのではないだろうか。

我慢と忍耐がチャンスを生む

生まれながらの悲惨な状況を嘆き、じっと耐えていたわけではない。
家康は、我慢の先に希望と野心を抱いていた。
チャンスが訪れるまで我慢し、それまで知識や能力を蓄えていたのだ。

人質生活では兵法書や史書を隅々まで読み漁ったり、豊臣家に仕えていた頃は3000人の忍者を雇って情報収集したり、ほかにも財源や人材を確保するための努力を惜しまなかった。
粘り強く我慢することでチャンスが生まれると信じ、そのチャンスを無駄にしないための材料をコツコツと積み上げていたのである。

そして、もっとも家康が恐れていたのは「気の緩み」であった。
油断や用心不足を嫌い、「滅びる原因は自らの内にある」と家臣や自分に言い聞かせていたという。

家康はかつて、武田信玄と一戦を交えたことがある。
彼の人生において、最大の負け戦となった三方ヶ原の戦い。
信玄の知略に立ち向かえず、ことごとく敗北してしまう。

信玄の強さを痛感していた矢先、思いもよらない情報が飛び込んできた。
それは、信玄が病気を患って死去したという知らせだった。

この出来事は日本中に衝撃を与え、天下取りを狙う武将が喜んだことに違いない。
信玄は武将たちにとって、それほど脅威な存在だったのだ。

滅びる原因は自らの内にある

信玄の死を聞いた家康は、浮かれる家来を目の前にし、用心深い言葉を残している。

武田信玄という強者がいたからこそ我々は常に緊張し、備えを怠ることなく試行錯誤しながら生きてきた。
彼が死んだ今こそ、今まで以上に気を引き締めなければならない。

鎌倉を滅ぼすのは鎌倉であり、平氏を滅ぼしたのが平氏であったように、一番恐れなければならない敵は、外の敵では無く自分自身の中にある甘えである。

油断、贅沢、目先の欲、全ては内側から起こることであって、これらを招く原因は気の緩みにほかならない。
私たちを滅ぼすのは外部の脅威ではなく、原因は自らの内にある。

これは信玄との戦いよりも過酷な戦いである。
だから私は信玄の死を喜ぶことができない

家康の我慢強さをつくりあげているものは、緊張・警戒からくる用心深さと、粘り強く慎重な状況判断である。
常に、気が緩まないように緊張を保っていた。
テレビや漫画では女にだらしない一面や穏やかな性格がクローズアップされているが、そんな浮かれた人間が265年も続く徳川幕府の基礎を築けるはずがない。

したたかさや計算高さ、豊富な知識や経験といった人間力が備わっていなければ成しえない偉業だからだ。
その根本にあるものが我慢だったにほかならない。
失敗する原因は外部の敵ではなく、“自らの気の緩みがまねく自滅”だと知っていた家康。
そして彼は、こんな言葉も残している。

一歩一歩、確かめながら歩く

人生とは、重い荷物を背負い長い道のりを一歩一歩と確かめながら歩くようなもの。
急がず慌てず確かめながら歩いていかなければ確実なものは得られない。

思い通りにいかないときは、それが当たり前だと思っていれば不満や苛立ちは起こらない。
欲や願望に支配されそうになったら苦しかった時期を思い出して我慢する。

また、怒りは生きることの妨げになる。
耐えることこそ成功の近道だ。
勝つことばかりを望んで負けた者の辛さを知らなければ、いずれ自分に不幸が訪れる。

人生とは自分との戦い。他人を責めることなく自分を責める。
何事に対しても求めすぎるのは良くないから、足りないものを補うくらいのほうが丁度いい結果が見えてくるものだ。

おわりに

さて、今回は徳川家康の人生を振り返りながら「我慢の美学」を学んでみた。
現代社会で生きる私たちにも通用する教訓ではないだろうか。

いかなる状況に置かれても粘り強く我慢することでチャンスを待ち、そのチャンスを無駄にしないための知識や経験をコツコツと積み上げる。

失敗する原因は外部の敵ではなく、自らの気の緩みがまねく自滅だと心がけ緊張を怠ってはいけない。
そして何よりも、一歩ずつ確かめながら確実に歩いていくことが大切である。

・我慢と忍耐がチャンスを生む
・滅びる原因は自らの内にある
・一歩一歩、確かめながら歩いていく

この教訓を参考に、男の生きざまを磨いてみるのもいいかもしれない。
派手に振舞うだけが“粋な男”ではない。
我慢強く耐え忍ぶ姿にも、男の美学が隠されているのだ。

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