千利休の一番弟子・古田織部が辿り着いた境地は“笑い”だった?
数多の武将が覇を競った戦国・安土桃山時代。
荒々しいイメージがある一方で、同時に豊かな文化の花開いた時代でもあった。
代表格が、「侘び茶」を大成した千利休だろう。
余分なものを廃した簡素な茶室と道具で客をもてなす「一期一会」の精神に美を見出す。
しかし、利休の茶の湯は深い精神性を感じさせる一方、難解で近寄りがたいイメージをもたらしている。
いびつな茶碗に込められた意図とは?
しかし、この茶碗の写真を見ると、戦国~江戸時代に盛んになった茶の湯のイメージは、良い意味で壊れるのではないだろうか。
いびつに歪められた形状に、不可思議な文様。
ふざけているとしか思えない。「茶の湯とは、行儀の良い高級なもの」と思い込んでいる人が、これを見たら、きっと驚くことだろう。
このヘンテコな茶碗を考案したのは、古田織部という人物だ。
生まれは1543年、徳川家康と同年。
江戸時代に入った1615年まで生きている。
正式な名は古田重然(しげてる、しげなりとも)といい、織部というのは官職名だ。
茶人大名・古田織部
織部は美濃国(岐阜県)の武士として生まれ、織田信長に仕えて出世する。
彼の果たした役目は使番といい、戦の最中に敵の大将のもとに行って交渉などを行うという、
命懸けの役目だ。
1582年、本能寺の変で織田信長が死ぬと、豊臣秀吉に従って山城国(京都府)の大名となった。
いつ頃からかは不明であるが、織部は千利休の弟子として茶の湯を学びはじめ、師のもとで茶人としての才能を発揮していく。
1591年、利休は秀吉の怒りに触れて切腹させられる。
利休の死後、織部はその弟子の筆頭として、秀吉の茶頭(茶の湯の指南役)となった。
以後、織部は天下に並ぶもののない茶人として、独自の気風を開花させていく。
その一つが、最初に紹介した織部焼だ。
織部の作らせた茶道具は、いずれも歪んでいたり、大胆な文様が入っていたりと奇抜である。
商人であった利休と異なり、織部は自由奔放な武士の茶の湯を目指した。
その根本には、「人と違うことをせよ」という利休の教えがあったという。
漫画で触れる古田織部の世界
古田織部を主人公とした山田芳裕の漫画『へうげもの』(講談社)では、その過程が大胆な虚構も交えながら描かれている。
織部の人となりについては詳しい史料が少ないのだが、漫画に出てくる古田織部は大変コミカルで、フットワークも軽い。
しかし、織部についての史実を知ると、『へうげもの』の描写も完全な作り事とも思えなくなる。
若い頃、使番という命懸けの仕事をしていたので、人を丸め込むのが上手いしたたかな性格描写にも説得力がある。
何より、彼自身が作らせた茶碗を見ると、人が驚いた顔を見て笑っているような“茶目っ気”が感じられるのだ。
利休や織部といった戦国時代の茶人たちは、現代につながる美意識も残している。
漫画のストーリーを楽しみつつ、日本人の芸術性を感じてみるのも良いだろう。