幕末を作り出した男「吉田松陰」…激烈な生きざまに触れる。
高杉晋作、伊藤博文、山県有朋―――幕末の動乱期を生き抜き、明治新政府を打ち立てる有為な人材を数多く輩出したのが、有名な松下村塾だ。
多くの門弟を指導したのが、長州藩士の吉田松陰である。
1830年に生まれ、1859年に刑死した。
満年齢にして29歳という短い生涯だったが、明治維新の精神的指導者として高い評価を受けている。
一方、その知名度に比べて彼の人となりを具体的にイメージできる人は少ないのではないだろうか。
歴史の授業で習った「言論弾圧にあって処刑された思想家・教育者」という知識から、学者肌の人物を想像するかもしれない。
しかし、吉田松陰の生涯をたどって見えてくるのは、むしろ強烈な「情熱の人」の姿である。
吉田松陰は文政13(1830)年8月4日、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として生まれた。
幼い頃、長州藩の兵学師範の家系である吉田家の養子となる。兵学師範の家を継ぐため、松陰は叔父である兵学家・玉木文之進の教育を受けた。若き松陰は、秀才との評判を日に日に高めていった。
その頃、世界は大きく動こうとしていた。
1840年に起きたアヘン戦争で、大国・清がイギリスに敗北する。
欧米列強の脅威の情報は日本にも届いており、多くの知識人たちが外交や国防を論じるようになっていた。
松陰も、見聞を広げるために藩の許可を得て、嘉永3年(1850年)に九州へ、翌年には江戸へと遊学の旅に出る。
信念のためなら法に触れるのも厭わなかった
松陰が九州での遊学時にであった友人に、熊本藩士の宮部鼎蔵という人物がいる。
二人は意気投合し、東北を旅行して見聞を広げる計画を立てた。
しかし、長州藩は松陰に対する身分証明書(関所の通過に必要だった)を発行してくれない。
そこで松陰は、「友との約束は破れない」と言って、当時重罪であった脱藩を敢行する。
東北の視察を終え、江戸に戻った松陰は、当然罪を問われて長州藩に送還され、藩士の身分を失う。
しかし、その才を惜しんだ藩主から国内遊学の許可を得て、再び江戸へと向かった。
松陰が江戸にいた嘉永6(1853)年6月、浦賀にペリー率いるアメリカ艦隊が来航する。
他の日本人同様に衝撃を受けた松陰は、なんと海外渡航を思い立つ。
国家のためとはいえ、露見すれば死罪もありうる危険な計画である。
翌年にペリーが再び来航した際、松陰は同志の金子重輔とともに、小舟からアメリカの軍艦に乗り込む。
しかし、松陰らの必死の訴えにも関わらず、ペリーは密航の願いを拒否した。
その後、二人は自首して捕縛され、長州藩へと送還される。
1年2ヶ月の獄中生活で、松陰は他の囚人に『孟子』の解釈を講義。
これが教育者としての松陰の原点となる。
出獄後、松陰は叔父・玉木文之進が開いた私塾・松下村塾を引き継いだ(誤解されがちだが、松陰が松下村塾を開いたのではない)。
老中暗殺計画を進んで自白し、処刑される
松陰は、門下生達に一方的に教えるのではなく、互いに議論したり、ともに農作業などで体を動かしたりと、「生きた学問」を教え続けた。
松陰が指導した期間は、安政3(1856)年から安政5(1858)年までのわずか2年程度に過ぎないが、この間に多くの門下生が育った。
ところが、安政5(1858)年、幕府が朝廷の許可なしに日米修好通商条約を締結すると、松陰はこれに猛反発した。
反対派を弾圧する幕府のやり方に対し、松陰が企てたのは老中・間部詮勝の暗殺計画だった。
長州藩は松陰を危険視し、再び獄へ収監する。
この頃、梅田雲浜という小浜藩の志士が幕府批判のかどで捕縛されている。
幕府は雲浜から松陰との関わりを聞き出し、関係調査のため松陰を江戸へと召喚・尋問した。
その尋問の席で、松陰の運命は決する。
老中の暗殺計画を、自ら獄吏に告白したのである。
安政6(1859)年10月27日、吉田松陰は死罪を言い渡され、即日処刑された。
わずか30年ほどの生涯にも関わらず、獄に繋がれた時期が非常に多いことに驚かされる。
「国家のため」という信念を貫けるなら、自分の命などどうなっても構わないという強い意思が感じられる。
信念のために命を捨てた師匠があったからこそ、弟子たちは歴史を動かす人材に育ったのだろう。
おわりに
東京メトロ・小伝馬町駅近くにある「十思公園」は、江戸時代にあった小伝馬町牢屋敷跡であり、吉田松陰終焉の地でもある。
松陰の生涯が終わり、幕末の動乱が始まったと言える場所は、今は静かな公園となって子供たちを見守っている。
住所:東京都中央区日本橋小伝馬町5-2