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【ナカムラクニオさんインタビュー】 パラレル・キャリアな生き方を楽しむ

美術からテレビ業界に移行した20代

ナカムラさんは高校性の頃から美術の活動を始められたのだとか。

現代美術のオタクだったんです(笑)。
大学時代では西麻布にあった現代美術館、PICA(ペンローズインスティテュート)にスカウトされて、アルバイトで作品を解説するスタッフをしていました。あと、世界中を巡って、価値がありそうな美術書の古書を買い付けてきて、東京で販売もしていました。
けっこう高く売れたんですよ。外国には毎月のように、異常なくらい行っていましたね。そういう経験が今の僕にすごく生きていると思います。
けれど、そんな自由に生きて行けるわけがないと思って普通に就職しました。

美術を仕事にしようとは思わなかったのですか?

自分の作品を作ったりもしていましたが、食べて行くのは難しいと思っていました。
美術をやっている人も別の仕事を持っていることも多かったですし。美術で生きて行く、という選択肢は正直、なかったですね。
いまだったら就職しない、という選択肢もあるけれど、僕らの時代はそれはなかったですからね。
いまの18歳の子って「就職したくない」とか平気で言うじゃないですか。「ユーチューバーになりたい」とか(笑)。
僕らの時代はそんな選択肢はなかった。親からのプレッシャーもあるし、大学を卒業したから「仕方ないな」と思って就職したところはありますね。

それで、大学を卒業されると美術ではなくテレビ業界に就職されるわけですね。

テレビ番組の『なるほど! ザ・ワールド』とか、世界を旅する番組に憧れていて、『テレビのディレクターの仕事をやりたいな』とずっと思っていたんですよ。
そうしたらたまたまフジテレビの子会社のニユーテレスが募集していて、『ここに入れば海外に行けるかもしれない』と思って入社しました。
大学を卒業したとき『なるほど! ザ・ワールド』は終了していましたが、同じコンセプトの『メトロポリタンジャーニー』という旅行をテーマにした番組が始まって、その担当になりました。
その後もテレビ業界で働き続けたんですが、30代後半くらいになると『ちょっとムリかな』と思い始めました。

ムリかなというのは?

テレビ業界は、けっこうブラックで、一週間くらい会社に泊まり込んで徹夜で番組を作るというのは当たり前なんですよ。
「明日から海外ロケに行け」とか。そんなのばっかり(笑)。
いつもカロリーメイトとウイダーinゼリーをポケットに入れておいてトイレで食べたり。楽しかったんですが、けっこう辛かったんですよ。
ちょっとこのままではやっていけない、と思いましたね。
そんなときに今、やっているブックカフェ「6次元」の前のお店がクローズするというのを聞き、「チャンス!」と思って、お金もなかったのですが、金融公庫から借りてカフェを始めることにしました。
「のんびりとカフェでもやろうか」ではなくて、衝動的に始めちゃったというところはありますね。

テレビ番組制作技術プロダクション「ニユーテレス」で7年。その後、ネクサスで6年ですが、テレビの仕事はきつかったですか?

僕は15年もテレビのディレクターをやったのに、一回もギャラクシー賞を取っていないし、視聴率も取れなかったんですよ。
文化番組とか、詩や音楽、芸術の番組もたくさん作ってきたけれど、どうしても結果が出なかった。大きな企画は一回も通らない。けっこう悩みましたよ。
テレビ局の若手がどんどん出世して上司になって行く。その人に怒られたりして。それが傷つくんですよ。
自分は取り残されているという気がして。けっこう悩ましいというのが正直ありましたね。
それにプロデューサーになりたかったけれど、なれなかった。いつまでもディレクター。
プロデューサーから「現場に行け」と言われて。「えっ! 僕がするんですか?」みたいなことも多くて。それが嫌で毎日、番組の企画書を書いていました。でも、当時は知らなかったけれど、プロデューサーになれるのは局の人だけで、下請けの会社のディレクターは、番組のメインのプロデューサーにはなれないんですよ。

ブックカフェ「6次元」が転機になった30代

ブックカフェ「6次元」を運営しながらもフリーのディレクターもされていますね。

ネクサスを退社して「6次元」だけに専念しようと思ったのですが、NHKから「国際局で働かないか」と誘われました。
僕はずっとNHKの番組を作りたいと思っていたんですよ。『辞めてみるもんだな』と思いましたね(笑)。
そこからは海外向けの番組をやりながら「6次元」も並行してやっていました。ドタバタだったけれど「6次元」は後輩に手伝ってもらったりして。でも、借りたお金は「6次元」の運営だけで計算上はラクラク返済できるはずなんだけど、修理のために思わぬ出費があったりして。それでも3年で返済しましたが、ディレクターの稼ぎを「6次元」につぎ込んでいましたね。

ディレクターもやっていてよかったということですね。

ディレクターもやっていなかったら「6次元」は維持できなかったと思います。
あと、テレビでは「1億人向けに番組を作れ」と言われたり、温泉のシーンでは肩を出すのはNGとか、僕が面白いと思ったシーンがカットされちゃうんですよ。面白いと思ったことがオンエアーされない。
それですごくモヤモヤしていました。
でも「6次元」だと30人くらい相手に僕の好きなことができる。
よくイベントもやるんですが、詩の朗読会を6時間やったことがあります。
番組だと「1分でいいよ」とか、「ナレーションでいい」とか言われることが「6次元」ならできるんです。
そういうところでもバランスが取れていますね。

バランスがよかったわけですね。

そうですね。両方がなかったら成立しなかったかもしれません。
それに僕は文学専門ではなかったのに、「6次元」で読書会を開催するようになって、そこから『さんぽで感じる村上春樹』(ダイヤモンド社)を出させてもらったり、日本全国で小説のワークショップなどの仕事が増えて行って。
こんなふうになるとは思っていませんでしたね。
僕はテレビでもキレキレのクリエイターではない、職人系の、あまり表に出ることのないタイプでした。今みたいに表に出るようになるとは思っていませんでしたね。

いまもディレクターの仕事は続けているのですか?

いまは基本的に断っています。たまに頼まれると引き受けたりもしていますが、ちょっと忙しくて。
「6次元」の店主をやりつつ、西葛西の専門学校で文学の講師を週に6コマやったり、東北芸術工科大学や京都の世界文庫で講師をやったりしていて、そっちの方が面白いんです。
ディレクターの仕事はお休みしてもやっていけるかなと。

パラレルな働き方を始めた40代

とてもお忙しいんじゃないですか?

忙しいけれど、今は幸せですね。
何でも自分で発信できるし、何をやっても怖くない。テレビの仕事では1か月くらい会社に監禁されていたでしょ。
いまは3食食べれるし、普通に夜に眠れるんですよ(笑)。
楽でしょうがないですね。ブラック業界の仕事を経験しておくと、何をやっても辛いとは感じなくなるんじゃないでしょうか。辛いことを乗り越えてきたから、今は何をやっても大丈夫ですね。

「6次元」が人生の転機になった。

転機でしたね。
前のお店がなくなるときに、「保存したい」と思って、内装ごと買い取ったんですよ。50年前のものをそのまま使っていたりしています。お客さんからは「よく保存してくれた」と感謝されることも多いですしね。
場所が愛されている。それに「6次元」なら何をやっても許される、というのがあるんですよ。とても自由ですね。
毎週、文学や詩の朗読会や読書会、美術のイベントをやっています。「6次元」でやっていることが他の仕事にもつながっている。とても面白いと思っています。

さまざまなお仕事をされていますね。

バラバラといろいろやるのが今の生き方かなと思っています。
パラレルキャリアの方が相乗効果を生むし、アイディアもわいてくる。
僕はパラレルで働きましょう、という活動を普及活動していて、そういうテーマで講義や講演の依頼も多いんですよ。月に20回くらい講演があったこともあります。

パラレルな働き方は今後、必要となるのでしょうか?

会社が突然、倒産したりする世の中じゃないですか。そうなっても食べて行けるように、いろんなことをやっていた方がいいと思います。
自分が老化していくなかで、シフトして行けるもうひとつのライフワークみたいなものがないと、定年を迎えたとたん、役に立たない人間になってしまうなんて切ない。
定年のない仕事というのは面白いと思っています。僕は器を修復する金継ぎというのもやっていて、それが地方でとても需要があるんですよ。そんな仕事をパラレルで増やすことで、ひとつがダメになっても次に行ける。
僕はヘンな話「6次元」がなくなっても何も困らないんです。他にやることはたくさんあるので。

それは意図的に増やしているのですか?それともいつの間にか増えているのですか?

意図的ですね。小さな仕事を積み重ねて行くことがこれからのやり方だと思います。
政府も副業を推奨していますしね。面白い時代になっているなと思います。終身雇用が崩壊して、10年後には仕事はロボットに取って代わられるんですから。そのときに何ができるか、今のうちから探っておかないと、あっと言う間にみんな、失業すると思うんですよ。

ナカムラさんの今後の野望は?

いっぱいありますね。地方に仕事で行くことが多いんですが、地方を移動しながらそれが収入になるような働き方を模索しています。地方で文学のトークで呼ばれたら、その周辺でパラレルキャリアのセミナーをやったり、金継ぎの講座をやったり。日替わりで職業が代わる。
そんな「移動するとお金が入ってくる仕組み」を実験的に作っています。上手くいけば極端な話、ずっと旅しているみたいな。映画『男はつらいよ』の寅さんみたいなスタイルが究極な働き方だと思っています(笑)。
東京の高い家賃のなかで暮らすより、移動しながらビジネスが成立するほうが、可能性はあると思っています。トランク1個あれば1年くらい旅して廻れる自信はありますね(笑)。

ナカムラさんにとって“粋”とは?

粋は大事にしています。
僕は江戸っ子なんですよ。父親もおじいちゃんも江戸っ子。『粋じゃなきゃダメ』と育てられました。たとえばすごく大事にしている本があっても「欲しい」と言われたらタダであげちゃうとか。江戸っ子ってそういうところがあるんですよ。「持ってけ!」みたいな。そういうのが好きです。

ものに執着しない生活とか。あと、せっかちですね。なんでも即決しています。そういうのも含めて重要だと思っていて、東京らしさってそういうところにあるような気がするんですよ。
壊れたら作ればいいじゃんとか。そういうのは今でも一番、大事かなと思っています。
その場その場で臨機応変に対応して行く。

そこに江戸の文化みたいなモノがあるような気がしています。

江戸文化を大切にすることが“粋”だと。

ということもないんですけど、東京で暮らしていくなかでは、そういうこともすごく大事だなと思っているということです。
あまりモノに執着しなくていいんじゃないのと。壊れたら直せばいいんじゃないという考えが器の修復につながっているし、その場ではかなく消えて行くモノはすごく美しいと思っていて、その場だけの、1日だけの展示やイベントもそういう意味で好きなんです。
その日しかないとか、その場だけしか体験できないようなことってすごく興味あります。祭り的な感じが好きなんですね。

祭りの感覚なんですね。

毎日、祭りを楽しんでいるところはありますね。僕はそういうお祭り的な生き方ができたら面白いと思っています。
だから誘われたときは、けっこう乗っかるようにしています。「楽しければいいんじゃないの」みたいなところはちょっとありますね。

ナカムラクニオ
1971年、東京都目黒区の生まれ。ブックカフェ「6次元」店主、作家、出版プロデュース、専門学校講師、金継ぎ講師。
都立日比谷高校在学中より美術の活動を始める。
学生時代に作品を横尾忠則に絶賛され、17歳で初個展。公募展など受賞多数。
また、西麻布にあった現代美術館、PICA(ペンローズインスティテュート)のスタッフをしながら世界を巡り美術書を収集、移動販売をしていた。
日本大学卒業後、フジテレビ系の制作会社ニユーテレス入社。その後、ネクサスを経て独立。フリーランスのディレクターとしてNHKワールドTVなどで国内外の旅番組を担当。『Out & About』『journeys in Japan』など、日本の文化を海外に伝える国際番組を担当。
2008年、37歳で荻窪にブックカフェ「6次元」を設立。美術、本、旅などをキーワードにした活動を展開し、イベント型の「つなぎ場」として話題になる。
村上春樹の読書会やノーベル文学賞の祝賀会、「ふなっしー」の初トークイベント、新しい作家の発掘、美術館や出版社とコラボしたトークイベントなども数多く企画している。
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