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【田中圭一さんインタビュー】すべての経験が血肉となる

漫画家とサラリーマン…二束のわらじ

漫画家になったキッカケは?

サラリーマンより漫画家になったほうが、まず先なんです。
大学3年生くらいでデビューし、4年生のときには連載が始まっていたんです。
といっても毎月6ページくらいの連載だったので、とても食べていけるお金でもないし、まずは働きながら連載をと…
サラリーマンより漫画家か後で決めようと問題を先送りにしたカタチで両方はじめたんです。
どうせ物を売るんなら、よく分からない製品より、趣味の玩具やプラモデルならサラリーマンとして頑張れるんじゃないかと思って玩具メーカばかりうけたんです。

まさにバブル期?

バブルがハジけるまでは、ずっとイケイケでした。
会社は昨年対比30%アップの目標を立ててましたから。

「バブル期ってよかったんでしょ?」というんですけど、あのお祭り騒ぎのような日々を底支えしてたのは若手の営業マン。
今のブラック企業なんて当たり前だったし、死ぬほど働かされてね。
ノルマが厳しくて本当にしんどかったことも多くあります。

それこそ、新製品売り残しちゃいけないのに売り残してるとか。なんかやっぱり自分だけ成績がうまく上がってないとかね。

落ち込み、恨みなど何か独特の心理はありましたか?

最初、自分が担当する問屋さんは、すごく仕入れが渋く厳しいところばかり持たされていると思ったんですよ。
僕は運がないって。
他の営業が持っているお客さんは、いっぱい買ってくれるんじゃないか?と疑いました。

しかし、担当が僕に変わると僕には売れなくて、やっぱり売れていたのは、その人の実力だったんだと気づくと本当にがっかりでしたよ。
売るためには単純に人柄だったりとか、誠心誠意じゃなくて、もっとなんかそれぞれみんな武器にしているものがあるんだよね。
そういうものを身に着けていかなきゃいけないんだと思って。

入社2年目ぐらいの時に、全国でナンバーワンの営業の人が東京にきたんです。
その人は全然、営業っぽくない。
「この人がどうやって注文とってくるだろう」って疑いました。
販売予測の数値とかのデータを持ってるんです。

営業でナンバーワンになるには、人柄や誠心誠意じゃなく、問屋さんが欲しい売れるデータやそれに基づいた予想値だったり…
数値に強い人っていうのがね、信頼されるんだっていうことが分かって、それを真似しました。
過去の売れ筋データを出し、グラフなどを商談で見せると上手く行きましたね。

漫画とか玩具が好きだったんですか?

そうですね、もろオタクでしたね。
入社早々、先輩から「玩具好きで入ったんだって?たぶんね、半年もすると見るのも嫌になるよ」と言われたんだけど…。

ノルマもあり苦しいながらも頑張れたのは、土日に漫画を描くことで発散できていたんでしょうね。
だから鬱にもならずに潰れず頑張れたのは、両方の仕事があったからだといえます。
平日は社内の明るい人達と接触し玩具を売るという仕事。
休日は家に閉じこもり漫画を描いてることがバランスが良かったんです。

30代の大きな転機「転職」

転職し、さらにどんな経験を?

ゲーム会社です。
今度は、ゲーム開発という未知の分野に足を踏み入れてしまったんです。

漫画の単行本も売れていて結構有名だったので「こいつだったら面白いゲーム作るんじゃないの」という安易な理由で採用されました。
あんまりコンピューターのこと詳しくなかったのに「大丈夫です」と言って入っちゃったんですよ。
内定後、慌てていろんな勉強をしました。

玩具メーカで10年間もやって所長のナンバー2までやって、マネジメントも経験していたので、開発のグラフィック担当者をまとめる仕事を任せられました。
ああいう職場って職人タイプが多く、現場の人間はグラフィックやプログラミングをしたいので、誰もマネージャーなんてしたくないんですよ。
そんな中、僕が「あーやります!」と手を挙げました。

今思うと漫画は、時代の最先端を常に追っかけ、流行に敏感でなければいけない。
最先端の会社に転職したおかげで、仕事で知識が自然と入ってきた。
特にゲーム開発の裏側は、なかなか入り込めるものじゃない。
ゲームがどう企画され、どう開発され、いかに販売されてってところまでを見ることができたってのが大きかったです。

今、大学で学生に教えてるんだけど、学生は皆「サラリーマンしたくないから漫画家になりたいんです」と言うんです。
でも実は、サラリーマンをやった方が漫画家の仕事としては有利なんですよ。
なかなか学生を説得しきれないんだけれども、個人的には10年間メーカーで営業やってたことも、5年間ゲーム会社で開発やったことも。
すごく自分の血肉になっています。

よく若い頃の苦労は買ってでも…と言うけど、それは若いときに言われたって分かる訳がない。
50代で過去を振り返ると、あれやってなかったら、今こんな感じで仕事できなかっただろうなと思う。
しかし振り返ると、その苦労は本当に役立ってるって思うんですよ。

闇へ…そのキッカケは「一生やって行こう」の一言

ある日、社長に呼ばれ「株を買ってくれないか」と…
「安くするし、株を買ってくれた人と僕は一生やって行こうと思ってる。」

僕は「万が一会社を辞めることになったら、買ったときの金額で買い戻してくださいね」と口約束を結び、漫画で稼いでた印税を全て株に。

しかし状況は悪くなり、リストラで人もどんどん減らし、さらに現場も機能しなくなって。
これは潮時だと思い辞める旨を社長に、伝えたんです。
「株の件はお願いしますよ」と言って。
「今は会社にお金ないから、半年待ってくれ」と言われました。

さらに半年後。
連絡がつかなくなった社長となんとか再会。
社長は「悪いけれど状況が変わったから約束はなし」の一言。

弁護士に相談もしたけど、どうにもならなかったというのが現状で…

やっぱり世の中こう初手で上手くいって、有頂天になっている人ってのは一見立派に見えるけど、やはり本質は見なきゃいけない。
実力あってそうなのか、単純に運が良くてなのか?

下から水が上がったときこそ、その人の人間性が出る。

急きょの転職から…

二束のわらじで頑張って漫画を描いてきたのに、貯金は少ない…。
会社を辞め、ゲーム開発用ソフトを販売する会社に急いで入社しました。

新しい会社は、プログラムもソフトの事も分かる技術営業を探していた。
こっちは一文無しの状態、とにかく条件も割りと悪くなかったので飛びついて…。

その会社のソフトはプログラミングが分かってないと、なかなかプログラマー相手にセールスがしにくいものでした。
とりあえず結構良い年収だし貯金もないからって、入社して頑張り、最初は、わりと売上が立ったんです。
社内でも「さすが営業が分かっている人が入ってくるとこんな良いもんなんだな」とも言われ。

3年か4年経過するころには、徐々に売上に陰りがでてきて、周りからも「最初に見せてくれたパフォーマンスって張りぼてだったんじゃね?」みたいな感じになり…
そのうち徐々に、健康状態というか、気持ちも沈むし、意味なくつらいし、どういう事だろう、って毎日が本当につらくなっちゃって。

男性更年期かな、腎臓、肝臓かな、糖尿病かなとか…いろいろ調べたけど、全然異常がない。
最後に残ったのは認めたくないけど、これ鬱病だと。
まさか自分が鬱病とは思わなかった。

心療内科で精神安定剤もらったんで、すぐ気持ちは安定してきたんですけど、安定剤ってカラダがすぐ慣れちゃうんで、だんだん飲む量を増やさないと。
それに飲まないともっと不安になる、大変になるって。薬物中毒に近いっちゃ近いですね。

会社へは行けてたんですけど、思い切ってまとめて休めば治りは早かったのに、なまじ責任感があり、会社へ行ってはつらい状態を悪化させるように仕事を毎日やってたんですよ。
それが鬱を10年も長引かせた最大の原因。

長い暗闇からの脱出…キッカケは偶然

年収は入社したときの半分以下にまで落とされてた。

もう50歳手前か50歳になった段階で、今辞めたってどこにも転職なんかできないよって。
漫画の仕事も、鬱病末期で描いてたやつも、そんなに気合いが入ってないのは漫画家としてもダメだろうと…。

そこから抜け出したのは、偶然に出会った1冊の本。
「鬱は薬では治りません」って書いてあったんです。
「鬱病の薬というのは身体がおかしくなるのは、仕事のし過ぎであったり、辛い状況から逃げたいというカラダのサインであり、アラームだ」と書いてありました。

火事に例えると、火が燃えているから火災報知器が鳴るんであって、それは火を消さなきゃいけない。
鬱病の薬っていうのは火災報知器を壊す役目しかしてないと。
鳴らないようにしてるだけだと。その原因である火を消してないんだから、薬で治るわけないじゃんって。
今、仕事を辞めて休む事があなたにとって最優先の業務だと。

丁度その頃、辞めて欲しいと会社に言われ、その本によって前向きになり背中を押してもらえた。

友人のツテで入った会社で、
「なんだ、ちゃんと精神的なものが正常にもどってくると、まだまだ自分の能力で仕事が回せるやん。」と自信にもなりました。

最終的には、京都の精華大学にちょっと手伝ってくれって言われました。
最初、非常勤講師だったのが、特任准教授となり、専任准教授へと。

鬱も抜けて気持ちも前向きだったので、思った以上に未経験の教師という仕事が上手くいって。
一番よかったのは、学生たちは、プロの漫画家に漫画を学びにきてるんで、僕を必要としてくれる。
僕もアドバイスをして。誰かに必要とされていることが鬱から抜け出る一番の決定打になったかな。

40代の10年間が鬱だった経験があるからこそ、今後不安要素がきても何とかなりそうだと今は思える。

つらいことをポジティブに変換?

それは鬱を抜けたからです。
火中にあったときには全然。
だから「うつヌケ」ってのをそのうち漫画にしていました

ときどきTwitterで感想を読むと、これは田中さんだから出られたんじゃん、とか、鬱から出るための能力をもってたから、僕なんかは絶対無理だよって人もいて。
その気持ちも分かる。
僕も火中にあったときはそう思った。転職できないと思ってた。
50代でこんな状態で、次の職場なんてありえないって思ったけど、それは鬱を抜け出て初めて気づくんですよ。

過去のことを今、肯定されているからこそ前向き

たしかに、これは努力したって無理。
そっちのフィールドにいっちゃってたらね、いままで積み上げてきたものも結局無駄だったじゃんってなっちゃいます。

大学で、みんな大勢の前で、言葉を選び大きな声でバーンとプレゼンできるのは、最初10年間営業してたときに教わったノウハウ。
ゲーム会社でプロジェクトを1から立ち上げ、設計し、進捗確認をすることを学んだことが糧になっている。
今、まさに大学でカリキュラムを組んだり、卒業展示では学生に任せて、どの程度、要所要所で確認するかってところが会社勤めで学んだことだったり。

本当に今にして思うと、人間 無駄なことは何もないって思う。
何かの役に立つんですよ。

田中さんにとって「粋」とは?

僕にとって「粋」なのは、精神的にすごく穏やかで、たとえば人から悪口を言われたり攻撃されても、本当に余裕でかわせる、っというのが粋だと思います。
単に辛かったり怒ってたりするのを我慢して、そうじゃないフリをするんじゃなくて、悟りがあるからこそ「君、なんか最近寝不足なの?」と言える感じ。
それを持って「粋」だなって感じはしますよね。

鬱を抜けてから少しそうなれたかなって気はします。
やはり経験は大きいですね。

田中圭一
1962年5月4日生まれ。大阪府出身。血液型A型。漫画家。
手塚治虫タッチのパロディー漫画『神罰』がヒット。
著名作家の絵柄を真似た下ネタギャグを得意とする。
また、デビュー当時からサラリーマンを兼業する「二足のわらじ漫画家」としても有名。
現在は京都精華大学 マンガ学部 マンガ学科 ギャグマンガコースで特任教授を務めながら、株式会社BookLiveにも勤務
うつぬけ〜うつトンネルを抜けた人たち〜
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