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優秀すぎて年収3,000万円? 意外に知らない夏目漱石の生涯を『漱石公園』で学んできた。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

文豪・夏目漱石の著書『吾輩は猫である』の冒頭部分である。

1867年(慶応3年)に生まれ、1905年に『吾輩は猫である』を発表。
以後、『坊ちゃん』『三四郎』『こゝろ』『明暗』と、次々に著名な作品を執筆し、1916年にこの世を去る。
文学に関心がなくても、わずか10年足らずで書き残した名作の数々を、一度は耳にしたことがあるだろう。

しかし、私たちは彼自身について、ほぼ無知である。
どんな出会いがあり、どんな弊害を乗り越え、どんなふうに生涯を終えたのか。
波乱の人生を歩んだ夏目漱石の人生を知れば、作品を既読した人はより親しみを持って読み返せるし、未読の人は読書欲に駆られるきっかけになるはずだ。

今回、新宿区早稲田南町にある『漱石公園』を訪れ、夏目漱石の生涯を学んできた。
なかでも面白いと感じたエピソードを、漱石公園の案内人:Tさんの解説と共にご紹介しよう。

秀才すぎて、校長先生よりも稼いでいた?

夏目漱石は、もともと英語講師だったことをご存知だろうか。

1892年(明治25年)。
当時25歳だった漱石は、東京専門学校(現・早稲田大学)の英語講師に就任。
その翌年、1893年には帝国大学大学院に進学し、東京高等師範学校の英語講師となる。

そのときのお給料は、月給37円50銭。
あまりピンとこないかもしれないが、当時としては破格の待遇だった。

一般講師で月給5円、校長先生でも月給10円の時代。それと比べれば、夏目漱石がいかに優遇されていたかが分かるでしょう。明治維新という新しい時代の幕開けと共に、英語の需要がとても高かったんですね。現在の東京大学にあたる帝国大学・英文科で特待生に選ばれた漱石は、様々な学校から引く手数多だったと想像できます

と、漱石公園の案内人:Tさんは語る。

17歳で東京大学予備門予科に入学。
21歳で第一高等中学校の英文科に進学し、そこで”正岡子規”と出会う。
ちなみに、正岡子規の和漢詩文集『七艸集(ななくさしゅう)』の巻末評に”漱石”の名が使われる。
苗字の”夏目”と合わせて、22歳のときに初めて”夏目漱石”の名前が生まれた。

28歳のときに、愛媛県尋常中学校の拓殖教員に赴任。
給与はさらに跳ね上がり、月給80円に。
29歳で熊本県の第五高等学校に赴任すると、月給100円も稼ぐようになる。
現在の価値で、およそ200~500万円だ。

その富豪っぷりは、食事をみればよく分かる。
夕食は”汁物・副菜2~3品・メインディッシュ1品”と、当時の一般庶民からすると考えられないメニュー。
魚と肉料理を1日おきに食べており、とくに牛鍋を好んでいたそうだ。

40歳のチャレンジ精神が、夏目漱石を世に残した。

英語講師として生計を立てていた、夏目漱石。
1900年(明治33年)に、当時の文部省から英語研究のため2年間の英国留学を命ぜられる。そこで、先進国の著しい発展に感銘を受けることとなる。ちなみに、学費を年間1800円、留学手当を年間300円給付されており、ここでも待遇の良さが伺える。

帰国後、第一高等学校英語講師、東京帝国大学英文科講師を兼任。
前者で年俸700円、後者で年俸800円、なんと合計1,500円を1年で稼いでいた。
先述した通り、当時の100円は現代価値で200〜500円。
少なくとも、年収3,000万円を稼ぎ出していたことになる。

……にも関わらず、40歳のときに英語講師を辞職。
教授になる道を捨て、朝日新聞社に入社。
38歳のときに『吾輩は猫である』が大ヒットしていた経緯もあるものの、月給は200円までガクッと下がる(もちろん、破格の待遇だが……)。

朝日新聞社は、当時のベンチャー企業です。
いくら『吾輩は猫である』が大ヒットしたとはいえ、大きな決断だったでしょうね。それでも、”これからヒット作を生み出せる”という自信と当時の朝日新聞社・社長の先見の目が確かだったこともあり、漱石は朝日新聞社の専属作家として成功を収めます。

案内人・Tさんの説明通り、夏目漱石の作品はいずれもヒット。
チャレンジ精神・ベンチャー気質がなければ、現代まで語り継がれることはなかったかもしれない。

ちなみに、漱石は25歳のときに本籍を北海道に移しています。当時の北海道は、明治政府の影響が薄くて徴兵制がなかったんですね。真意は定かではありませんが、そのおかげで漱石は徴兵を免れています。そんなところも、頭が回るといいますか、計算高い人物だったことが伺えますね

ストレスに苛まれた人生だった。

ここまで読めば、順風満帆な人生だったと思いがち。
しかし、夏目漱石にも、生涯を通して苦しめられる悩みがあった。

その発端となるのは、英国留学だ。
最先端の文明と技術に感動しつつも、帰国間近には強度の”神経衰弱”にかかる。
現在でいう、鬱病に似た症状。
慣れない生活やプレッシャーによって、ストレスが蓄積されたのだ。

漱石に任せられたのは、英語研究です。単なる旅行でもなければ、留学でもない。英語の研究を命ぜられたわけですね。想像してみてください。例えば、”国語を学びなさい”と言われてもそこまで難しいと思はないでしょう。しかし、”国語について研究しなさい”と言われたら、途端に難しく感じませんか? 当時は外国についての情報や知識がなかった時代。そんな中で、漱石は政府からの特命というプレッシャーに耐えつつ、イギリスで慣れない生活を送っていたわけです。

その後、鬱病は幾度となく漱石を悩ます。
普段は優しい父親の漱石も、度重なる執筆活動の負担で鬱病が悪化。
性格がガラリと変わり、鬼のようになるときもあったそうだ。
ストレスに弱い体質になってしまい、ついには胃病を発症。
重度の胃潰瘍によって、この世を去ることになる。

この漱石公園は、40歳から晩年を迎えるまで住んでいた”漱石山房”の跡地。ここで鬱病や胃潰瘍、ストレスと戦いながらも執筆活動に努めたわけです。また、そんな漱石を慕っていた弟子たちが、週1回の”木曜会”で集まっていたのも漱石山房。芥川龍之介や寺田寅彦なども通っていたそうですよ。

自身が生涯をかけて学んだ知識と技術。
持病と執筆活動の負担に負けず、それらを惜しげもなく弟子たちに伝える。

夏目漱石の器の大きさを垣間見ることができた。

人の数だけ、物語がある。

文学作品のイメージが先行するが、夏目漱石も一人の人間。
数々の名作の背後には、壮大なストーリーが存在している。
ここまで読み進めたあなたが、夏目漱石という人に興味を抱いてくれたなら、嬉しい限りだ。

最後に、案内人:Tさんに夏目漱石の作品の魅力を聞いてみた。

漱石の本はとにかく難しいですね。でも、だからこそ、読む度に新しい気づきがあるんですよ。漱石公園の案内人になり、漱石についてより詳しく知ってからは、”作品を通して何を伝えたいのかを読み解きたい”という気持ちが強くなりました。今は、『こころ』の2回目読破にチャレンジしています。難しくて、なかなか読み進められてませんけどね(笑)

目まぐるしく時間が流れ、速読が流行している現在。
そんな状態で暇を作るのは難しいかもしれないが、たまには夏目漱石のような難しい作品をゆっくりと遅読してはいかがだろうか。

また、2017年(平成29年)、夏目漱石の生誕150周年を迎える。
それを記念して、現在は漱石公園に『漱石山房記念館(仮称)』を建設中だ。
人が混雑する前に漱石公園に併設されている『道草庵』に赴き、案内人に漱石について詳しく伺ってみることをオススメする。
1の質問をすれば、10の回答が返ってくる。
是非、漱石の魅力を体験してもらいたい。

■漱石公園
住所:〒162-0043 東京都新宿区早稲田南町7
電話:03-5273-3914
利用時間:4-9月/8:00~19:00 10-3月/8:00~17:00
http://www.city.shinjuku.lg.jp/seikatsu/file15_03_00010.html
■漱石山房記念館(仮称)
http://soseki-museum.jp/
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