伊達男と遊び心~伊達政宗から学ぶかっこいい男のエッセンス
良い男、を表す言葉は沢山あるが個人名が今日まで残る形容詞は数少ない。
普段から振る舞いも服装もお洒落で、どこか色気が漂う存在感の男性が、伊達男だね、と褒められているのを耳にしたことがあるかもしれない。
この伊達男の語源は、もちろん日本人なら誰でも名前を知る伊達政宗から来ている。しかしなぜ豊臣秀吉の時代から400年、洒落た男の代名詞はなぜ現代まで残ったのか、彼の人となりを覗いてみよう。
東北地方を代表する戦国武将
生まれは1567年の出羽城、現在の山形県にあたる。
18歳の若さで父輝宗から家督を継ぐと持ち前の才覚を発揮して次々と東北地方を平定していった。摺上原の戦いで蘆名義広に勝利することで山形、福島、宮城の三県に跨る114万石の領地を持つ、全国有数の戦国武将へと上り詰める。
死の危機を乗り越えるためのパフォーマンス
しかしその後豊臣秀吉が天下を統一することで、彼の行軍にも暗雲が立ち始めることになる。
秀吉の小田原征伐に際して全国の大名へ「北条攻めに加わるように」との命令が下される。これに大して小田原へ駆けつける大名の多い中、伊達政宗はなかなか動こうとはしなかった。
東北地方を征した名門伊達家の頭首である、という誇りが彼を踏み止まらせる。
結局、情報収集する中で秀吉の勢力の強大さを知り小田原へ駆けつけることとなるが、到着が遅れた彼を秀吉は許さなかった。機嫌を損ねた秀吉は正宗と会おうとしなかったのだ。
このままでは伊達氏は秀吉に滅ぼされてしまうかもしれない。
そこで一門を守るために策を巡らせた正宗は、秀吉の茶の師匠にあたる千利休に接近をする。
秀吉たちの好む当時最先端の文化である茶の湯を習うことで、自分が秀吉に敵意のないことを示そうと思ったのだ。
この機転が功を奏し秀吉との面会が適うと正宗は、なんと白装束という格好で面会の場へ望む。武士が切腹を行うときに着る白装束に身を包むことで命を懸けて忠誠を誓う姿勢を見せた正宗は、小田原への遅参を許されることとなった。
合戦を人々の楽しみへ昇華
その後東北地方では秀吉に反発をした一揆が度々起こる事となるが、秀吉は正宗の忠誠を試すため彼に討伐を命じていた。
秀吉の疑いを晴らすために、この頃から正宗は自軍の武具や服装に奇抜な服装を用いるようになる。京都へも出陣することがあったがその度に京都市民が「今日はどんな格好で来るのか」と楽しみにしたほどであったという。
もちろんこれはただのパフォーマンスではなく、秀吉のために戦う正宗の知名度を上げることで、秀吉への忠義を宣伝するための手段としたのだ。
ただ戦いに勝つだけではなく、そこへ一工夫することで民衆の人気を得、ひいては秀吉への忠義を示すことで家臣団の中でも独特の立場を獲得することができた。
このように彼の知名度を上げた出来事の背景には、ただの奇抜な自己主張ではなく状況に合わせ周囲に配慮する強かさ、賢さが表れる。
そして民衆をも楽しませる遊び心が、彼の人気の秘密なのではないか。
勝負の場にも遊び心を
伊達政宗の遊び心を示すエピソードとしてこのような話がある。
大阪夏の陣にて長い包囲戦に飽きた大名たちが“香合わせ”という遊びを始めた。
香合わせというのは香の木の欠片を燃やし、その匂いから香木の名を当てる遊びだ。
その原木を当てたものに賞品を出し始めると、それが段々とエスカレートし「誰がどれほどの賞品を出したか」という賞品の競い合いになっていった。そこへ正宗が参加した際、彼はいつも腰から下げている粗末なひょうたんを賞品とした。
他の大名たちは「やはり東北の田舎者だ。いくら自分の軍団を華やかに飾っても、このようなみすぼらしい賞品を出すようでは大したことはない」と囁き合う。
そのため香合わせの勝者もひょうたんをもらっても少しも嬉しそうではない。
すると正宗が「私の賞品はそれだけではありません」と言う。
大名が呆気にとられていると正宗が笑いながら近くの木を示す。
「あちらをご覧ください」するとその木の幹に一頭の白馬がつながれている。あまりに見事な馬なので皆が驚き、ひょうたんをもらった大名が「なぜあのような見事な馬を下さるのですか」と問う。それに対し正宗はこう答える。
「ご存知でしょう、ひょうたんからは駒が出ますよ」
これには先ほどまで正宗を田舎者だと囁き合った大名たちも正宗の風流心に驚いた、という話だ。
このように伊達正宗は持ち前の戦の才能だけでなく、周囲の人に前向きな驚きを与える遊び心があったからこそ現代でも多くの人に愛される男の代名詞になったのではないだろうか。
私たちがいつも職場や人付き合いの中で当たり前に行っていたことに、彼に習ってどうしたら面白くなるか、と考えることが伊達男と呼ばれる第一歩なのかもしれない。