江戸,わび・さび,浴衣,料亭,蕎麦,花火…
近世より続く日本文化のイメージを思い浮かべた方も多いのではないだろうか。
「粋」が示すものとは、果たして本当にそれだけだろうか?
例えば、こんなセリフ。
「彼は、帰省を望んでいた部下に、金曜日 部下の実家近くに出張を命じた。粋だね。」
「彼のプレゼントのセンスはどこか粋を感じる。」
「映画のこの台詞 粋だな」
口に出して使う機会の多い言葉ではないが、私たちは「粋」という単語を「カッコイイ」よりも、もうワンランク上の褒め言葉として感じ取ってはいないだろうか。
計らい、ファッション、食事、遊び方、贈り物、台詞、お酒、文化など、あらゆる事象に対し「粋」という感情を持つ。しかも、不思議と日本人の頭の中に根付いている言葉、それが「粋」だ。
「可愛い」も、同様の使われ方をする。
誰かが「可愛い」の定義を決めた訳ではない。しかし、トレンドや時代の雰囲気にマッチした、モノ・コト・ヒトに対し、私たちは「可愛い」を使用する。
日本人にとって、無意識のうちに共有化されている感覚の一つである。
日本だけではない。「可愛い」の感覚は、海外でも「KAWAII」に形を変え、今や、世界共通の感覚として認識されている。
「可愛い」同様、「粋」もまた、日本人の意識の底に根付いているからこそ、フトした瞬間、さまざまな事象に対し、私たちは「粋」という言葉を自然と頭に思い浮かべるのだ。
「粋」とは何だ?
実は、「粋」を分析した先人がいる。
明治・大正時代を生きた哲学者「九鬼 周造」だ。
彼は著書「いきの構造」で、「粋」という言葉は3つの概念から形成されていると説いている。
その3つとは、
江戸文化をベースにした「媚態」・・・いきごと、いろごと、色恋の駆け引き
武士道をベース「意気地」・・・物事をやり通す気力、他に負けまいとする意地
仏教をベースにした「諦念」 ・・・道理を悟る心、諦めの気持ち、垢抜け
だという。少しシックリこない。それぞれの単語を、私たち現代人が使い慣れた言葉に置換してみる。
「粋」は、“色気”と“こだわり”と“余裕”で、形成されている。
これだ。
私たちが「粋」と無意識に感じる感覚。
「カッコイイ」では足りない「色気」と「こだわり」と「余裕」への日本人特有の欲求。これこそが「粋」の本質なのだ。
我々の先人達が長い月日を重ねて、自然構築された美意識が「粋」だ。
その粋の要素“媚態” “意気地” “諦念”を
あらゆる事柄から知る/接することで、私たちは、そこから人生の課題解決のヒントを得たり、毎日の暮らしをより豊かにできるのではないだろうか?